目覚ましから木霊する名雪の気の抜けた声を聞いて、祐無は目を覚ました。
 聞いていて鬱陶しいので、とりあえず何も考えずにその音源を止める。

「うにゅ……」

 いとこそっくりの声を出すと、意識が再び夢の世界へと向かっていった。

「だめ……寝るな〜……」

 祐一は朝に強いんだからぁ〜、と自分を鼓舞しながら、無理矢理重いまぶたを開ける。
 名雪と同じようにとまではいかなくても、彼女はもともと朝は弱いほうなのだ。
 最近まで学校に通うことなどなかったのだから、朝は寝ぼけていてもご飯さえ食べられればそれでよかった。
 彼女が朝に弱いのは、それまでの生活習慣を考えれば当然のことだと言える。
 しかし彼女と違って毎朝きちんと起きて学校に通っていた祐一は、どういうわけか朝にはめっぽう強い。
 祐一のフリができなければ今後の人生にまで大きく関わってきてしまう今の彼女は、いつまでも寝ているわけにはいかないのだ。
 上手く力が入らない腕を酷使して、無理矢理上半身を起こす。
 が、これは失敗に終わり、ぽふっ、と再びベッドに横になってしまった。

「あれぇ〜?」

 なんだかいつもより余計に体が重い。
 どうやら睡眠時間が足りなかったらしく、疲れが取れていないみたいだった。

(あぁ……そうか、ゆうべは……)

 秋子にすべてを話したことを思い出し、サァーっと血の気が引いていった。
 おかげで眠気は完全にどこかへ行ってしまい、がばっ、と跳ね起きる。

「そうだよ、全部話しちゃったんだよ……」

 ぽてっ、とうなだれる様にして反対側に倒れる。下にある掛け布団の感触が気持ち良い。
 再び睡魔がやってきた。

「負・け・る・も・ん・かぁ〜!」

 不平を訴える全身に鞭打ちながら、ゆっくりと立ち上がって伸びをする。
 やはり眠い。学校の授業中に眠ってしまうのはすでに確定事項だろう。
 祐一も学校ではよく眠っていたらしいから、それがせめてもの救いだった。
 今日は名雪を起こして一緒に登校するような気力はない。

(さっさと学校に行って眠ろう……)

 そう思いながら、祐無は祐一のサイズに合わせてある学校指定の男子制服を身に纏うのであった。






 リビングでは、秋子がいつものように朝の支度をしていた。
 食卓では、月宮あゆと水瀬真琴が朝食を食べている。二人とも和食だ。
 あゆは病院で目を覚ましてからたったの一ヶ月のリハビリで退院し、数日前から水瀬家に居候している。
 この七年の間に完全に身寄りがいなくなってしまったと知って、秋子が自分からこの家に誘ったのだ。
 さすがに学校には通えるはずもなく、しかし何もしないでいるのも暇だということで、あゆは百花屋でバイトをして生活している。
 真琴のほうは、二月の半ばにひょっこり帰ってきた。
 秋子の娘として戸籍を持ち、今では正式に水瀬家の一員になっている。
 こちらも保育園のバイトをして暮らしている。
 当然だが、二人とも祐無を祐一だと信じて疑っていない。

「おはようございます」
「おはようございます、祐一さん」
「おはよう、祐一くん」
「おはよっ、ゆういち」

 いつものように挨拶を交わす。
 祐無が祐一として暮らすことの重要性も理解しているので、秋子の態度は昨日までと変わらない。
 祐無はそんな秋子に感謝しつつ、自分も食卓に座った。
 三人は和食を食べているが、祐無の分はトースターで焼いた食パンだ。
 あゆは和食派だが名雪はいちごジャムがないと満足しないので、彼女らに合わせるようにして他の人のメニューが決まっている。
 名雪と一緒に登校をすることが多い祐無はパンで、あゆと相部屋ということもあり、一緒に起きてくる真琴は和食。
 用意する味噌汁等が二人分だけでは寂しいので、秋子も和食を食べることにしている。
 実は祐無も和食派なのだが、名雪だけ食事が違うというのは寂しすぎる。
 結果、自分もいちごジャムを存分に使いたいのを我慢しつつ、甘い物が苦手な祐一に合わせ、マーガリンを極々薄く塗ってトーストを食べることになっていた。
 祐一として暮らすことは、男女の違いよりも何よりも、実は好みの違いの方が大変だったりしている。
 彼女が今日もその味気ないトーストにかぶりついたところで、あゆが話しかけてきた。

「祐一くん、名雪さん起こしてくれた?」
「いや、寝不足で疲れが残ってるからやめた。あゆ、頼んだぞ」
「えぇ〜! またボク〜!?」
「リハビリの延長だと思えばちょうどいいじゃないか。だいたい、お前以外は朝はゆっくりしてられないんだよ」

 一応あゆのバイトも毎日なのだが、喫茶店のバイトなど、学校や保育園が始まるのよりも遅い。
 あゆがうぐうぐと不平を言っているのは気にせず、祐無はトースト一枚を食べきった。

「ごちそうさま」
「あれ? 祐一くん、今日は一枚だけ?」
「ああ、秋子さんに夜食作ってもらったから、あんまりお腹減ってないんだ」
「ふ〜ん……」

 納得したようなことを言いながらも、あゆはどこか浮かない顔をしている。
 昨日の祐無の状態は普通ではなかったから、そのことについて色々と考えているのだろう。
 ひょっとしたら、あえてその話題を避けているのかもしれない。

「ね、ね、ゆういち。なんで昨日はあんなだったの?」
「うぐ!?」

 しかし、真琴はそんなことはお構いなしのようだ。
 自らの好奇心をまったく抑えようとしない。

「ん? まあ……それについては、またそのうちな」

 祐無は席を立ちながらはぐらかし、真琴の頭をなでるように優しく叩く。
 そしてもう片方の手であゆの頭をくしゃっとなで、

「あゆも。そんなに深刻なことじゃないんだから、あんまり気にしすぎるなよ」
「うぐ……う、うん」
「それじゃ、俺は学校に行くから」
『いってらっしゃい』
「いってきます」

 祐無はリビングを出て、学校へと向かって行った。
 だから彼女は、その後にあゆがぽつりと呟いた言葉を知らない。

「でも、昨日の祐一くんは、やっぱり深刻そうだったよ……」






 祐無が学校に着いても、教室にはまだ数人しか生徒が来ていなかった。
 目覚まし時計はいつも通りの時間にセットされていたとは言え、名雪を無視すれば、かなり早い時間に登校することができる。
 今日は三時間目に体育の授業があるが、それまではただ爆睡あるのみだ。
 彼女は授業の準備もそこそこに、席に座って腕を組み、机に覆い被さった。
 完全に眠る体勢である。
 自分の安眠を妨害して楽しむような、趣味の悪い知人はいないはずだった。
 だから、せめて朝のHRまでは安心して眠れるはずだったのだが――――

「学校に来ていきなり寝るなよな。せめて声をかける機会くらいは与えてくれ」

 今朝に限って、そんな彼女に声をかけてくる者がいた。
 心の内の不機嫌さと眠たさを隠そうともせず、祐無は顔を上げて正面を見上げた。
 見覚えのある男が、自分の前の席に後ろ向きに座っている。
 中性的と言えなくもない可愛らしい顔つきに、クリーム色に染められた頭髪。
 その頭頂部には、他人に『アンテナ』とからかわれるほどの癖っ毛。
 わざわざ説明するまでもない、クラスメイトの北川潤だ。

「……なに?」

 オレは疲れているんだと言わんばかりの挙動で返事をする。
 潤はそんな祐無の態度を気にした風もなく、彼女の机で頬杖をついて、言う。

「いや、昨日のお前の態度が妙に気になってさ。美坂の誕生日祝いだってのに、ずっと暗い顔してたじゃんか」
「……そうか?」
「そうなんだよ。少なくとも、俺の目にはそう映ったんだ。あの調子じゃ、きっと美坂や水瀬だって気付いてるぜ?」
「……そうか」

 それは祐無にとって気が重い話であると同時に、彼女は今、ものすごく眠たかった。
 潤はそんな、祐無の煮え切らない態度に呆れているようだった。

「あのなぁ。何があったのかは知らないけど、俺でよかったら相談に乗るぞ?
 お前、今でも辛そうな顔してるじゃないか」
「ああ……今のはただ眠いだけだよ。寝れば治る」
「なんだよ、寝てないのか? ダメだぞ、いくら可愛い女の子とひとつ屋根の下だからって」
「そんなんじゃねぇよ。昨日、夜遅くまで秋子さんに相談に乗ってもらってただけだ」
「そっか。……そういうことだったら、もう俺が気を遣うまでもなかったな。
 邪魔して悪かった。時間になったら起こしてやるから、ゆっくり寝てろ」
「言われなくてもそうする」

 潤が席を立ったので、祐無もまた机にうつ伏せになる。
 その直後に、後ろの席にだれかが座る音がした。
 祐無は思い出したように、前を向いたまま後ろの人物に話しかける。

「北川……」
「ん?」

「ありがとう」

「馬鹿。らしくないこと言ってないで、さっさと寝てろ」

 明らかな照れ隠しで返してくる彼が、祐無には妙に可愛かった。